事件や事故の犠牲者遺族に対する取材というのが、この仕事をしていて、たぶん一番
きついものの一つだ。「こんなことが何になるのか」って、記者なら誰しも一回は考
えるんじゃないだろうか。
事件や事故で亡くした人が身近であればあるほど、その人の話題はデリケートなものと
なり、口に出して言葉にすること自体、いや、人からその話題を振られるだけでも、こ
み上げる感情が体力を奪い、やめてくれと思う。あるいは「お前なんかに、あの人のこ
とを問われたくないんだ」って、まるで大事なものを汚されたような不快な気分に陥
る。
そんな人たちに、それでも尋ねて、話が聞けたら記事にする。その過程では、いつも
よりも何倍もの気を遣い、丁寧に作業をしなくてはならない。それが遺族取材というも
のだ。
100人以上の犠牲者が出たこの脱線事故では、これまでにないくらいの数の遺族取材
を経験した。その中で、本当にいろいろなものを見たと思う。最悪な取材の現場もあれ
ば、自分自身の苦い思い出になるような出来事も。逆に、取材する私と遺族の気持ちが
うまく重なって「記事にできてよかった」とほっとするような経験もできた。
うまくまとまるのかどうかわからないけれど、今回、見たこと、感じたことを、これか
らの自分のためにも書き留めておこうと思う。
まずは「最悪」と思った現場から。
その日、私は朝から事故の犠牲になった人たちの自宅を訪ね歩いていた。
妻を亡くした夫や、大学を入学したての息子を亡くした両親…ほとんどが、
「今は話す気になれない」と、取材拒否の状態だ。断られると、また次の家。そんな作
業を繰り返していたら、やがて携帯電話が鳴り、本社から「どうしても行ってほしいと
ころがある」との連絡が入った。また新たに遺体の身元が判明したということだった。
そこは他の遺族とは少し事情が違っていた。
詳しい説明は省くけれども、事故全体の区切りの意味を持つようなタイミングに重なっ
ていたため、どうしても取材しておきたい場所だった。「断られたら、次」というよ
うに他に代えが利かないのだ。教えられた住所に向かう車の中で、私は「難しいかもし
れませんよ…」と本社の先輩記者に伝える。「なんとかしてくれ」と彼は言う。
高層マンションの一角に、その人たちは住んでいた。
ドアの前に立ち、チャイムを鳴らすと、憔悴しきった表情のお父さんが出てきた。
その家庭は、まだ20歳代の息子さんが犠牲になっていた。
「今、遺体安置所から戻ったところなんです。わざわざ来てもらって申し訳ないのです
が、とても対応するのは無理なんです。お葬式の準備とか、そういうのも全然まだで、
これからなんです」。玄関口に出てきたお父さんは、まだ若い息子さんの亡くした
ショックに打ちのめされていて、しかも親戚からの連絡や、弔問に訪れる息子の友人た
ちの相手や、葬儀の準備などに追われていた。既に夜はふけている。
名刺を渡し、お悔やみの言葉を口にする私。「とても取材は無理だ」と思った。
息子さんの思い出や、事故当日の振る舞い、JRへの思いなどを今、聞き出すのは、
とても無理だ。いったん立ち去り、その後のことを考えよう…
と、ふと私は、近くに4人も5人も他の新聞記者が無言でじっと佇んでいることが気に
なった。マンションの狭い廊下のところに、しかも玄関のドアのすぐそばに大人が4人
も5人も立っている。最初は彼らはまだお父さんらへの挨拶がまだで、私と同時かその
後に、お父さんに話し掛けるのかなと思っていたのだが、
どうやら様子が違う。私と一緒にドアのところに近寄ってきたのは1人だけだった。
「………?」しばらく不思議に思った私は、やがてその意味を悟った。
彼らは既に、挨拶を終えているのだ。
つまり、そうして一回、さっきの私と同じように取材が断られていて、それでも粘ってあえてドアのそばで待っているのだった。
「ちょっとやりすぎだろう」と思った。遺族が今、どういう状況かは、どんなに鈍くて
も理解できるはずだ。百歩譲って、ここが一軒家だったら玄関から少し離れた物陰で待
つというのも「有り」かもしれない。何かの拍子にふらりと出てきた親族に話しかける
とか…
実際、それができる状況なら、私もやるかもしれない。
しかし、ここはマンション。隣の家までたった5メートルの集合住宅なのだ。
そのドアのすぐそばに4人も5人もの大人がじっと長時間、待っているというのはあまりに異様。家の中の人たちには相当のプレッシャーになるだろう。
「私は、離れますけど…」。独り言とも、問いかけともあいまいな調子で、私は彼ら
のほうにむかってつぶやき、マンションの階段をおりた。少し離れたところで、弔問
に訪れる友人らに少しだけ話を聞いて帰ろうと思ったからだ。
しかし彼ら、ずっと待っている4、5人の記者たちは、じっとそこに立ち続けていた。
その後、約30分すると、マンションにはパトカーがやってきた。遺族本人か、近所
の人が、警察に通報したのだった。私が様子をうかがえるところまでまた近付くと、
さっきのところで待ち続けていた記者たちが警官に注意されているところだった。
よりによって、一番デリケートに接しなくてはならない取材で、こんなになるまで現場をこじらせるなんて…。最悪。その前に記者自身で「こういう取材は許されるか?」っ
て、判断することはできなかったのだろうか?
もしかしたら彼らは本社や支局にいるデスクに「そこを動くな」って言われていたのかも知れない。でも、そんなことは言い訳にもなにもならない。
「こういう取材はまずいと思います」ってデスクと議論をしろとまでは言わない。
せめて自分の判断で黙って現場を離れれば済む話。もしかしたら後で、「メディアスク
ラム」という言葉を知らないようなアホなデスクに「腰抜け」とか「やめちまえ」とか
怒られることになるけれど、それが何だっていうのか。
それで取材上のモラルが守れるのであれば、たいしたことではないだろう。
進むか退くかを一人で判断できない人。取材のモラルを明らかに踏み越えそうになることや、読者を裏切るような行為を犯すことより、上司のキャップやデスクに怒られることのほうが怖い人。そういう人間は記者なんてさっさとやめたほうがいいと思う。
でも実際は、そんな記者もわりと多い…。情けないけど。
というわけで、この日の夜は仕事を終えてから、けっこう飲みました。「あんな奴ら、
さっさとやめちまえ」とか「ああいうやつらがいるから、メディア全体が人でなし
みたいに言われるんだ」とか、ぶつぶつつぶやきながら…。
最後に、世の中の真面目な記者の名誉のために付け加えるけれども、別の遺族のとこ
ろでは、真面目な記者たちが集まって、うまく距離を調整できたケースもある。
会社では別の後輩記者が「遺族の人から、『記者の人たちってもっと乱暴かと思っ
ていたけれど、ちゃんと気を遣ってくれたのでありがたいです』と言われました」なん
て報告していることもありました。
だけど、この日の経験は、今思い出しても腹が立つ。それに、自分への戒めにもなる
と思う。「ああなっちゃいけない」って。