脱線事故の話の続き。といっても私自身は今、本来の持ち場に戻り、事故そのものの取
材に直接関わることがなくなったので、これでいったん区切りをつけようと思っている。
少し古くなってしまったけれども事故発生直後のJR西日本の会見での記者からの「人が
死んでんねんで」という発言やその取材手法について、私がここに書いた文章に対し
て、番記者さんから
トラックバックとご意見を頂いたので改めて意見を記しておきま
す。
いきなりややこしいかもしれないけれど、私は「あの場面で、あの記者の態度はどうな
のか」という問題と、「一般的にいって、記者会見の場で会見側に対して記者が怒鳴っ
たりするのはいいのか悪いのか」という問題を区別してとらえている。個別の具体例と
一般論は分けて考えないと、混乱するから。そのうえでこのブログの中の文章では、後
者の問題を念頭に置いて書いたつもり。「一般的にいって記者会見という場においての
やりとりでは、おどしたりすかしたりカマ掛けたりとぼけたり、そういう行為も全部
『あり』だと思ってます」ということを言っておきたかった。つまり、よりしっかりと
した事実や発言を引き出すための取材手法はいろいろありますということだ。そこまで
踏み込めなければ、簡単にごまかされてしまう危険もたくさんありますよ、という意味
を込めて。
しかし「じゃあお前はあの会見での、あの記者の行為を支持するのか」と問われれば、
それに対する私の答えは「支持しない」。理由は「あの会見の中で、あの記者の発言や
それに続く態度が、JR側への追究としてほとんど有効に機能しているようにみえな
いから」だ。後日、会見の模様を映像でみたのだが、確かに記者が勝手にヒートアップ
して、空回りしているような印象を受けた。あの威丈高な発言や態度には、「狙い」が
みえない。「これを言わせた」という結果も伴っていない。だから私は支持しない。し
かし、繰り返すけれど、あくまでそれは取材として成立していないから支持しないので
あって、番記者さんが感じられているように「『人が死んでんねんで』という発言その
ものがなし」というのとは少し違うように思う。場面と状況が違えば、ああいった形の
追究姿勢が有効に働くこともあり得ると思う。
それにしても、その後のボウリング大会が発覚した後の記者会見はもっとひどかった。
「どのツラ下げて遺族の家の敷居をまたいでるんや」「あんたらみんなクビや」。こうい
うほとんど野次のような大声には、何の意図も感じられない。幼稚だし、単に記者が感情的に
なっているだけだ。感情にまかせて大声をあげるだけの記者は、プロ失格と言われても
仕方ない。プロなら自分の中の怒りをある程度コントロールして、ちゃんと考えてカマしを
入れたり、すかしたりしながら、相手のごまかしを許さない取材を展開するべきだ。
感情にまかせた怒号はみていてとても不快だけれど、そうした「プロの取材」が展開されてい
れば会見の見方や雰囲気もだいぶ違うのではないだろうか。