京都で過ごす夜は僕にとっていつも特別だ。
先週末は大学時代の先輩二人との夕食。東山三条のさびれた商店街の中にある蕎麦会席のお店で一次会をし、近況を報告し合うとエンジンが掛かり始め、さっそく河原町近辺へ。高瀬川沿いの老舗バー、高倉通りにある町屋風の居酒屋とはしごするうちに会話が弾んで止まらなくなった。先輩二人は、ゼミの頃からとびきり優秀で、僕のあこがれでもあった人たち。今はともに関西地方の大学で人文学系の研究者として活躍している。卒業してから6年以上もたつと、彼らの知識や会話はますます深く、丸みを帯びるようになっていて、その端っこに加わることができる知的興奮の中で僕はずっとうれしさを感じていた。
大学の現状から、メディアのこと、恋愛の話や文学の話、世代論、果てはイラク問題や日本の戦争責任の話に至るまで…。様々なテーマの話題が絡み合い、お互いに投げ掛け合いながら、延々と会話が続く。二人とも「そういえばさ…」と続ける議論やエピソードの選択の仕方、視点の置き方がつくづく素晴らしくって、 「本当のインテリジェンスを持つ人との会話は快楽だ」と改めて実感。まるで質の良いジャムセッションのようだった。
明け方になって会計をする時、店員さんが何か言いたげにムズムズしている。僕が「?」という表情をしたら、彼は「難しい話のようでしたから会話に割り込めなかったですけど、でもみなさん本当に楽しそうでしたね」と笑った。
河原町駅から始発の阪急電車に乗って帰る途中、「はたからみても、よっぽど盛り上がっていたんだなあ」と思い出し笑い。途中、かなり難しい話題やシリアスな議論にもなったにもかかわらず、飲み屋の店員さんに思わず指摘されてしまうくらい楽しそうにみえたということが、特別、うれしかった。
もしかして僕らが大学生の頃だったら、堅苦しい話題の時には眉間にしわを寄せてこぶしを握りしめて議論していたかもしれない。そして何十年後かでアタマが固くなってしまえば、相手の意見や話題をキャッチして投げ返す反射神経が衰えてしまうのかもしれない。でも今の僕らは、それほど幼くもないし、年を取りすぎてもいない。
僕のこのうれしさのもとには、おそらくそんな実感が含まれている。
今こそ、思いっきり走る時期。そして、また明日から一層頑張ろうと元気づけられる。
この夜のことが影響してなのか、今週は久々に本格的な歴史書を読み始めた。
大学時代以来…。何を隠そう、僕は文学部の現代史専攻だったのだ。
月曜日に書店で購入したのは、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」。
終戦直後の日本について政治や文化、人々の暮らしなどから多角的に分析した本だ。1999年の出版以来、ピュリッツァー賞をはじめ数え切れない賞をとった著作だから内容は折り紙付きの一級品。
歴史書といっても、ジョン・ダワーの筆は「映画のよう」と評されるくらいに文学的だ。戦後の全くの無の状態から驚くほどの生命力とエネルギーで立ち上がる当時の日本の人々の姿を描く様は迫力に満ちている。文章がとてもドラマチックでうまい一方、歴史学者らしい冷静で緻密な分析や、政治体制からサブカルチャーまで網羅する視野の広さはさすがと恐れ入るばかり。早くも上巻が読み終わりそうで、下巻は来週の楽しみにとっておこうかな。
ここ最近、再び仕事がちょっと暇で(つまりあんまり大きな事件がなくて…)、けだるい午後を過ごすことが多い。ちょうど良い機会だし、悪い人が活動し始めるまでのしばらくの間は、また読書と思索の日々を過ごそうかなと思っている。