最近、とてもお気に入りの日本映画がある。
新人監督の内田けんじのデビュー作、「
運命じゃない人」。
何度も時間が巻き戻って、さまざまな登場人物の視点に切り替わりながらストーリーが展開し、その複数の物語が絶妙に重なり絡まりあうドタバタコメディーだ。脚本の見事さはとにかく感動もの。それだけでも一級のエンターテインメント映画だと思うけれど、僕が一番気に入っているのはこの映画、とにかく「おしゃべり」だってこと。細かい場面の会話の妙がリズミカルに僕らの気持ちをほぐし、やわらげ、高揚させてくれる。
私立探偵の神田が、友人のサラリーマン、宮田にレストランで説教する場面は、同年代の男子必見。笑いながらも、ちょっぴり冷や汗が出る。
少し前に一緒に参加した合コンに来ていた女の子についてしゃべっていると、宮田が電話番号すら聞いていないことが判明する。宮田は彼女に逃げられたばかり。そんな宮田のために世話を焼いてやっている神田は、あまりのふがいなさに憤慨するのだ。
「いいか?お前、電話番号をなめるなよ。あの十一桁の数字を知っているか知ってないかだけが、赤の他人とそうじゃない人を分けてるんだからな」
しょんぼりとうなだれる宮田に、神田はさらにもう一撃。
「いいか?はっきり言っとくぞ、30過ぎたらもう、運命の出会いとか、自然な出会いとか、友達から始まって徐々に惹かれあってラブラブとか、いっさいないからな。もうクラス替えとか文化祭とかないんだよ。自分で何とかしないと、ずっと一人ぼっちだぞ、絶対に、ずーっと。……危機感を持ちなさいよ。危機感を。」
映画館の中、観客の何人かがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえるよう。もちろん僕を含めて…。
で、宮田君は、この一言でその後、少しだけがんばることになるのだけれど、結局、宮田君は宮田君。完全な現実論者に切り替われるわけもなく、ほのぼののんびり運命を信じる性格は変わらない。
そして映画をみる僕や、おそらくほかの男子たちも、おんなじなんだろうな。きっと。
運命の信じる気持ちっていうのはなかなか人に説明しにくい微妙なもので、たとえば過去に自分の前を通り過ぎた人のことについて感情の整理をつけていながら、同時に「またきっとどこかで関わりあうに違いない」という確信めいたものが残ったりする。人からは「未練でしょ」って指摘されがち。でも、それはきっと違う。思い出に縛られているという感覚は、ぜんぜんない。こちらから頑張って接近したりもしないし、しようとは思わない。つまりはほったらかし。自分は自分で勝手に自分の時間を前に進んでいる。これから先、その人が遠く離れたり、自分にネガティブな感情を持っていることに気づいたり、はたまた電話番号やメールアドレスをすべてなくしてしまったりしても、「またきっとどこかで」という確信は揺るがないのだろう。そんな風に落ち着いた気持ちを自分の心の中に確認した時、僕は「今、運命を感じているんだな」って思う。
で、さらに言えば自分の周りで同じように運命を信じつつ、それを幸運にもつかんだ人がいれば素直にうれしい気持ちになって、まるで次かその次か、そのまた次くらいは自分の順番なんじゃないかな、というように喜んでみたりする。…うーん、ある意味、重症だなこりゃ。
と、いろいろあれこれと考えは巡るものの、
「運命じゃない人」は、驚かされて、笑えてすかっとして、とにかくとっても良い映画。機会があればご鑑賞あれです。