イラクで拘束されていた香田さんが、今朝、遺体で発見された。おそらくこういう結果になるとは思っていたけれど、改めてやるせない気持ちになった。彼の死は、とても空しくて悲しく感じる。
なんで行ってしまったのか。
その無邪気さがあまりに愚かで、でも責める気にもなれない。ただやるせなく、空しい。
半年前のイラクで取材をしたから、土地の雰囲気やとりまく危険を幾分か、イメージすることができる。それに、学生のころ、彼と同じようなバックパッカーだったから彼の行動や気持ちをなんとなく想像できる。だから余計に、何で行ってしまったのという感情を覚える。
今年はじめからワーキングホリデーで渡ったニュージーランドが初めての海外という彼は、おそらくちょっと背伸びした旅行者で、ヨルダンに至るまでの道のりは、きっとびっくりするくらいに刺激的で、自分の人生の中でも、すごく濃密に感じる時間だったんじゃないかなって思う。貧乏旅行の旅人たちの集まる安宿や、ごったがえす空港や、みやげ物売りの子供たちや、そうしたいろんなものに触れながら熱気のようなものを感じて。自分の中に、これまで気づかなかったような勇気や信念みたいなものを見つけたりして。
不確定な行き先に運命めいた予感を抱き突き進む快感は、一人旅の一番の魅力だろう。
僕も何度もそういう経験がある。けれど決してそれは命をかけるほどに価値あることじゃない。もちろん、そういう常識をとっぱらったところに、そんな快感の源泉があるのはわかった上で言うのだけれど。
それにしても、戦地経験が豊富なベテランジャーナリストでさえ、死を覚悟して渡るような状況の土地に、Tシャツ短パンで行くのはあまりに無謀すぎる。
ジャーナリストやボランティア、自衛官や外交官。望んでイラクに行く人のほとんどは、多かれ少なかれ、なんらかの覚悟を持って国境を越える。
死ぬかもしれないな。でも仕方ないなって自分なりに納得して。
だから不幸にも死の運命を迎えても、唯一、よりどころのようなものが残る。
単なる思い込みかもしれないけれど、「この人は、このために死んだんだ」って、遺された人たちもその死を意味づけることができる。
それが救い。墓標のようなものだ。
だけどたぶん彼の場合は、イラク行きを決意させたのは、そういう覚悟じゃなくて、熱気にあおられたセンチメンタリズムのようなものにみえる。彼の死をどう意味づけて、どう受け止めていいのか。きっと家族や友人たちは、ずっと迷い続けなくてはならないんじゃないか。彼自身も。
今回の事件のあとには、墓標が見つけられない。
だから悲しい。
せめて、早くイラクが平和になって、遺体が見つかった空き地で、両親が花を供えられるようになってほしいと思う。